根性論

 若いころ「根性を入れかえろ」と怒鳴られ修行したものでしたが、このところ、「ど根性」では人の指導はできません。

 そもそも根性という言葉の意味が違っています。根性とはその人が生まれ持った性質という意味です。本来は仏さまの教えを受け入れる能力がどれほどかをはかる言葉で、「機根」と言われます。お釈迦さまは対機説法といって、相手が受けとめる能力に応じて、教えの説き方を変えていったと伝えられます。どんなに素晴らしい考え方でも、受け入れる能力がないならば、まったく役にたたないからです。

 むかしのインドでのおはなし。幼い子どもを亡くし、なぜ自分だけがこの苦しみにあわなければならないのか。なんとか生きかえるような薬がないかと、亡きがらを抱き狂乱するキサーゴータミーという母親がいました。そこに出会ったお釈迦さまは言われます。「わかりました。からしの種を持ってきてください。ただし、死人が出ていない家からですよ」と。喜んだゴータミーは家々をまわりますが、そこでさまざまな人の死を聞くことになります。そうです、死人がいない家などあるはずがないのです。死を迎える苦しみは自分だけのものではない。そして、生まれたものはすべて亡くなるということに自ら目覚めます。

 自分の思うこと、信じることを、相手の立場をまったく考えずに主張する方が多いです。どんなに正しいことでも、受け入れる能力がなければ、問題の解決どころかトラブルとなり、新たな怒りや悲しみが増えるのです。怒りは怒りで解決しません。

 原発や憲法のことはしっかりと考えていきたいものです。世をリードする人はとても大切なお話なのに、人の批判に終始します。とても重要なお話なのに怒っています。何かを曲げなければならないのでしょう。さらには偏った報道も加わります。これでは我慢くらべの根性論と変わりません。私たちはそこで、自らの生き方が同じようにならないように学ぶべきです。

 幼子を亡くすという苦しみは、何千年が過ぎようと変わらない苦しみです。そのように、一生かかってもすべての苦しみがなくなることはないし、どんなに親しくとも価値観がすべて共であることもありません。

 だからこそ機根に応じた生き方で、お互いを認め合うきっかけを大切にし、それぞれの自らの気付きを尊重すべきなのです。

 

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