愛宕山山頂にて
令和6年2月24日(土)早朝から。
(25日16時まで山頂にてご開帳。26日は東漸寺本堂にてご開帳しております)
柚木から俵ヶ浦にいたる、昔、相神浦(あいこのうら)といわれた地域からは、いたるところから愛宕山を望むことができます。
愛宕勝軍地蔵菩薩、不動明王、毘沙門天の三尊は、戦国時代の武将たちの守り本尊でした。この地をおさめた宗家松浦氏は、愛宕さまを中心にお祀りしたのでしょう。
江戸時代となり、この地を治めた平戸松浦氏は、滅ぼしてしまった宗家のお城があった愛宕山を、東漸寺に命を出して手厚く守ります。旧正月24日の地蔵菩薩の初縁日に、愛宕勝軍地蔵菩薩を山頂でおまつりすることが始まったのです。
勝軍地蔵は武将が神格化した姿です。明治維新政府からは廃仏棄釈の格好の対象となり、その頃、国の政策として始まった神社神道にくみこまれ、いったんは愛宕神社と名付けられ、国に取り上げられます。江戸時代に松浦氏が造った祠や石灯籠などは徹底的に壊されてしまいました。同様にして全国にあった白馬に跨る武将が錫杖と如意宝珠を持つ御姿のほとんどが、無かったものとされました。愛宕山という名称は残っていても、お宮なのか何なのか、現代人にはよくわからないという理由ですね。
国に摂取された時に、勝軍地蔵の御神体は密かに東漸寺へ避難してありました。明治30年頃に、御神体と山頂は本来は地蔵堂として守ってきたという活動が地元でおこり、山麓にある洪徳寺さま、金照寺さまを始め、地域の方々による証明が長崎県庁へ提出されて、愛宕神社という名称は誤りであったことが認められ、山頂のみが境内地として認められることとなります。残念ながら戦国から江戸時代にかけての姿は、すべて破壊されていましたが、長い年月をかけて現状まで復興している途中です。
24日は地蔵菩薩の御縁日、旧正月の初縁日に愛宕山をおまつりすることが「愛宕まつり」です。
旧暦が廃止されて新暦に変わり、2月24日が御縁日と定められます。23日10時から東漸寺にて護摩祈願を行い、午後に愛宕勝軍地蔵さまを山頂へ運び上げ、夜7時から山頂御宝前にてご開帳をし、領内安全五穀豊饒、地域の安全と豊かであることをお祈りし、お堂でお籠りをします。
昭和の初め頃には、8畳間ほどのお堂に泊まりきれずに、外で火を焚きながら朝がくることをお待ち受けしたと聞きます。24日の朝、皆様の参拝が始まります。
標高259メートル、30分ほどの急な山道、すれ違いざまに「こんにちは」「おつかれさま」「もう少しですよ」と、あたたかい言葉が交わされます。そして、山頂でまつられている愛宕さまを、それぞれの思いで拝む。住んでいる町の様子を高いところから眺め見る。それが「愛宕まつり」です。
愛宕山の裾野の武辺城を向く方向が「門前」と呼ばれる、いわば正面玄関です。もともと、洪徳寺と飯盛権現が鎮座していました。飯盛権現は東漸寺が別当として祭礼を行っていました。明治維新で廃止されてしまいます。今も付近の山中には古い石垣などが数多く残り、お城へとつながる飛び石や、直線道路が残っています。相浦中里ICが造られるときに発掘された門前遺跡は縄文から江戸時代という長い間の人の営みがみえます。
近世に相浦の港は炭鉱積み出しで町が開かれて、現在の相浦町となっていきます。その頃から愛宕まつりに合わせて、市(いち)が立ちはじめ賑わい始めました。
しかし、愛宕山全域は陸軍の境界標柱が多く残っているように、要塞として機能していたようです。大正から昭和と、しだいに戦争が多くなり始めると、昔からのまつりごとが中断されて、人々の入山が規制されました。先々代の住職の昔話で、お地蔵さまを上げようとしていると山の中からいろいろな者(つまり警護の人のことなのでしょう)が出てきて、行く手を止められて困ったと語っていました。第二次世界大戦下では、山全体の木が切り払われ、住職自体もとうとう入山が出来ずに、祭を行うことが出来ませんでした。
戦後すぐに山頂でのおまつりを再開、戦後の復興と共に地域の要望で昭和30年頃から24日から26日までの3日間の祭礼を行い、賑わいがおこるようになりました。植木市として広まり始めた頃です。
時代がさらに移り休日という感覚が浸透し、現在の市は、愛宕まつりとの縁日と無縁となり週末を選んで行われています。
人の営みにより価値観は変わりますが、お祈りの心は変わらないよう、お守りしています。
晴れは晴れのように、雨は雨のように、曜日もいろいろ、体調が良い時、すぐれない時、登れたり、登れなかったり。それが数百年を守ることです。
水もなければお手洗いもない山です。2月でも汗びっしょりになるくらい、きつい勾配です。どうぞ、準備万端でお越し下さい。