古書を整理しているときに、戦時中の一通の手紙が出てきました。差出人は長崎県 内政部長 様。消印は昭和20年6月25日です。国は戦時下で、爆薬の原料として樟脳を集めており、東漸寺の楠木も供出の要請があり、当時の住職は、保護を求めて長崎県に手紙を送りました。その解答が以下の通りです。
「東漸寺山門のかたわらにある楠木は、県下有数の大樹にして、本来ならば保護すべきものと認められる。時局の要請があることは致し方ないかもしれないが、供出の時期を誤らず、特に仲介商売にはのらないように、留意されたし。」
部長様には近づく終戦が明確であったのでしょうか。とはいえ、その立場で供出を拒否して良いと公言できるわけはありません。短いながら実に奥の深いお手紙です。
楠木については、明治13年、現在の本堂建立の際も、楠木を売る・売らないで対立があったと伝えられています。楠木を売ればよいといった家は、お寺を離れ、私達のご先祖の尊いご寄進によって本堂は建立され、現在に受け継がれています。
ものの興廃は、かならず人による、人の昇沈は、定めて道にある(弘法大師空海)
私達は、一時の感情、短期間の得や損、迷うことは多くあっても、大切なことの判断は自力でしなければなりません。
一人一人が、分別のある大人になることに、すべてのものの存亡、興廃ががかかっています。お大師さまが繰り返し唱えられていることは、生きる人よ強くあれということです。
近年の子どもを取りまく環境には、その自主性をいかそうとするあまりに、判断までも強要する風潮があります。しかしながら分別がつけられるのは、長い経験を生かして道を知った大人であるはずです。若い人に道すじを示すこと、道理を伝えること、すべて大人の役割です。責任の所在を求める前に、そして地域やグループでの活動より前に、私達が自力で考え、行動しなければならないことは、数多くあるはずです。
分別ある人をうみだすための教えの道、それが仏教という智慧の道です。