薬師如来

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 平らかなる一年でありますことを、ご本尊さまの前でお祈りをしております。東漸寺の御本尊、薬師如来は、七百年昔に造られて以来、この地をお守りする仏さまとして伝えられています。平成の大修理が終わり、初めてのお正月を迎えました。

 

 薬師如来は、病を治す仏さまとして、インドで2世紀頃にあらわれ、チベットや中国を経て、聖徳太子の頃に日本へ伝わりました。大陸からの文化の伝来は、同時に伝染病も広まります。インフルエンザや麻疹など、いくどとなく大流行をしたといわれます。ワクチンが発達する明治までは、人々は恐れながら命をつないできます。ですから、祈りの道場として薬師如来をおまつりすることは、欠かせないものだったのです。

 

 京の都の鬼門に比叡山延暦寺があり、江戸では上野の森に寛永寺があり、ご本尊として薬師如来がおまつりされています。規模はまったく違いますが、この地方の中心だった武辺城の鬼門に東漸寺がおかれています。松浦家の本家である城主のもとで、命をかけたお祈りが続いていたのでしょう。

 

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 薬師如来の姿は、右手は施無畏印といって、相手に恐れなくていいですよと、相手をはげましている姿。左手は与願印といい、お薬が入った壺を持ち、病を治してあげますよと、いう姿をしておられます。

 

 薬師経というお経には、薬師如来の願いが書かれているのですが、その第一に瑠璃の光によりすべての物事を照らし、無明を取りはらうとあります。

 

 瑠璃光とは夜明けの青い空の色です。朝日が出てくる東に薬師如来の里があるのだそうです。お寺の名前に東が入っていれば、薬師如来を祀ってあるはずです。ちなみに西は阿弥陀さまのお浄土なので、西が付くお寺はたくさんありますね。

 

 無明とは迷いのことです。明かりがない世界は、そこに何があるかがわからない世界です。さらにはそこに無いものまでもが、有るかのように感じるのが闇の世界です。  闇は存在が変化しているわけではなく、ただ光が差しこんでいないという状態です。私たちが感じる「苦しみ」も同じように、実態があるものではなく、迷いを起こしていることなのです。ですから、自らの心を明るく照らさなければならない。それが、智慧と呼ばれるものです。

 

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 拝めば病が治るのか、これは正しくもあり間違いでもあります。おはらいをしたり御札をいただくことは、不安な心に光がさすことを願うことを形にした行為です。苦しみを一人で背負うのではなく、仏さまが聞いてくださる。また、自分の大切な人と共有することができる。それがはげましとなり、生きていく力がみなぎり、病という苦しみが取り除かれていくのです。病が治ると考えてしまうと、拝んでも治らないという不安がつきまとってしまい、時には怒りを生むことになりかねません。

 

 願いを祈ることは、魔法を期待することではなく、冷静に今自分がどういう状態なのかと判断をする行為なのです。心が闇に包まれそうな時は、自分をしっかりと見つめ、今、何を成すべきなのかを考えなくてはなりません。病が起きることは、避けることができません。一病息災という言葉があるように、そのお付き合いのしかたによっては、延命につながることもあります。また、家族が支え合うきっかけとなることもあります。祈りとは、苦しみを和らげるための、仏さまからの応援です。

 

 ですが、難しいお話ではなく、お薬師さまのお顔を拝んでいるだけでも、幸せな気持ちになりますよ。迷いを起こすとうつ向いてしまい、夜にあれこれと考えごとをしてしまいます。そういう時はお薬師さまの東から出る朝日をながめ、新しい朝が来ることを感じましょう。そして、お寺で古くから伝わるお薬師さまの優しいお顔を拝んでいただければと思います。

 

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 楽しきかな 一 (いつ)も事(こと)無きは。という言葉があります。一つも悲しむようなことがないのは、何とも楽しいものです。悲しみ苦しみを見つめすぎずに、お互いを認め合い、溶け合っていくような心で生きていきたいものです。