義捐金の行方について、あれこれと考える方がいます。何に使われているのか、報告はあるのか、分配が遅いのではないか、などなど。もちろん、今の世の中、とんでもない詐欺がありますから、仕方がないことかもしれません。しかし、自分が投じたお金はすでに自分のものではないのですから、潔く善意に「おまかせ」する心が必要です。嫌ならば自分が納得できる方法を探せばよいだけのことです。
屋久島で自然と共に過ごされた詩人・山尾三省さんは、「仏さま」は私の心にあるものだということを、わかりやすく説かれています。
観世音菩薩 というのは
世界を流れている 深い慈愛心のことであり
わたくしの内にも流れている ひとつの
深い慈愛心のことであるが
いつの頃からか
この世界には そのようなものは実在しないと
私たちは考えるようになった
それがなくては
この世界も わたくしも
一刻も成り立ちはしないのに
わたしたちは それを架空のものと
考えるようになった しかしながら
一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば
その人は 観世音菩薩なのであり
一本の樹が ぼくに慰めを与えてくれるならば
その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである
山尾三省「観音経の森を歩く」より
仏さまというと仏像やお寺の中のこと、あるいは亡くなった方だと思いがちですが、仏さまという存在は、私の内側にある慈愛の心そのもののことです。現代の社会では、仏さまを信じる心は薄くなっています。それは、人を慈しみ愛すること、さらには人を信じる心が失われているという意味となります。
供養とは生きている人が行う善い行いであり、死者が自分のためにすることはありません。自分の死後を思い、身辺の整理で安心を得ることはあっても、自分がいない未来の人々の生き方までもを、整理をする必要はありません。今を潔く生きぬき、あとは仏さま、つまり、慈愛や信頼の心に「おまかせ」する生き方に徹したいです。