施餓鬼

 餓鬼とは、いつも飢えと渇きに苦しんでいる亡者です。餓鬼が口にしようとするものは、炎となってしまうので、何一つ食することができず、飢えの苦しみは限りがありません。

 お釈迦さまの弟子のひとりに阿難尊者という方がおりました。一人静かな場所に座り、修行をしていると、身は醜く枯れ細り、口からは火を吹き、見るのも恐ろしい形相の餓鬼があらわれました。餓鬼は阿難の前にじっと座り、そして言いました。

 「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼となり、私と同じような醜い恐ろしい姿になるだろう」

 驚いた阿難尊者はお釈迦さまに助けを求めました。するとお釈迦さまは、限りない功徳があるお経を示し「この経を唱えながら餓鬼に食物を布施しなさい。そうすれば僅かな一食でも、たちまちにたくさんのおいしい食べ物になり、無数の餓鬼を満足させることができるでしょう。この供養により、多くの餓鬼が苦しみから逃れ、天上に生まれ変われるし、また施主は、寿命が延び、仏の道を悟ることができます」と教えました。これが施餓鬼会の始まりといわれています。

 阿難尊者の目の前に現れた餓鬼とは何を意味しているのでしょうか。その醜い姿は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。

 子どもをガキと呼びます。子供は食事が済んだばかりでも、お菓子を見つけると食べたがります。大人からみれば十分食べて満腹のはずなのに、本人は目の前の食べ物に心を奪われ、満腹を知りません。このような限りない物欲(ぶつよく)が餓鬼なのです。阿難尊者が見たものは、心の中にある物欲です。物欲が高じると、自分本 に走り、人を差 したり、傷つけたりします。そこでお釈迦さまは、物欲に支配された醜い心を洗い、清らかにしていく手だてとして、私たちが生きていく上で避けて れない「食欲」をたとえにして、布施の修行を示し教えたのです。

 施餓鬼会では、三界萬霊と印された 牌をお祀りします。三界萬霊とは生きとしいけるものすべての魂という意味です。この世の中は、必ずどこかで持ちつ持たれつの生活をしています。すべての精霊への供養が施餓鬼の心であり、私たちの普段の生活の中での「いただきます」「ごちそうさま」という言葉も施餓鬼の心といえるでしょう。

 祭壇には、季節の数種類のお野菜を小さくきざみ、お洗米とお茶の葉を混ぜた水の子といわれるお供え物があります。おひとりおひとり、祭壇の前で水の子をを供え、ご供養を捧げましょう。

 また、施餓鬼会では卒塔婆供養を厳修いたします。卒塔婆とはお釈迦さまのご遺骨の上に建てられた塔に由来するもので、仏教の象徴であり、また供養の証(あかし)となるものです。身近なご先祖さまはお戒名を書いて、他は先祖代々としるし、ご供養されると良いでしょう。お卒塔婆は、お盆の間、精霊棚でおまつりをし、十五日にお墓または精霊船と一緒に流して下さい。