仏像を調査するとき、ちょうど病院での検査のように、エックス線スキャンで内部のようすを確認することがあります。すると、頭や胸の位置に、舎利(仏さまのご遺骨)が入っていることがあるのです。この舎利について、お大師さまがお読みになった『大智度論』という書物に、次のような問いかけがあります。
「仏さまの舎利と、経典に説かれる教えとでは、本当に大切なのはどちらですか。」
ご遺骨は、その人が懸命に生ききった最後に遺るもので、人生で培われた経験がつまっています。私たちは、たんに物体としての舎利を崇めているのではなく、「かたち」あるものを通して亡き人のおこないを敬っているのです。遺されたものごとに込められた思いを汲みとることで、供養の心は伝わり続けます。
心という字は「うら」とも読みます。心悲しい(うらがなしい)とは、言葉にしようのない悲しみが、心の中にあるということです。また、心から美しいと思うことを、やまと言葉で心麗し(うらぐわし)といいます。このように、どうしようもなく湧きあがってくる、言葉ではいい尽くせない感情を、誰かに伝えるための方法が、美術などの「かたち」に託すことではなかったでしょうか。仏像の裏にある舎利もまた、仏さまが一生をかけて説かれた教えを敬う心を、後世の私たちに伝えています。
世の中に変わらないものなどありません。それでも、今日の私が、目の前にある「かたち」を大切にすることができるのは、目には見えない誰かの「うら」と通じ合っているからなのです。
まもなくお盆です。お迎えのしつらえを整えながら、自己の中にご先祖を感じ、私たちはどう生きるかを考える機会としたいです。