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ほとけさま

日々おもうこと

 義捐金の行方について、あれこれと考える方がいます。何に使われているのか、報告はあるのか、分配が遅いのではないか、などなど。もちろん、今の世の中、とんでもない詐欺がありますから、仕方がないことかもしれません。しかし、自分が投じたお金はすでに自分のものではないのですから、潔く善意に「おまかせ」する心が必要です。嫌ならば自分が納得できる方法を探せばよいだけのことです。


 屋久島で自然と共に過ごされた詩人・山尾三省さんは、「仏さま」は私の心にあるものだということを、わかりやすく説かれています。
 
観世音菩薩 というのは
世界を流れている 深い慈愛心のことであり
わたくしの内にも流れている ひとつの
深い慈愛心のことであるが
いつの頃からか
この世界には そのようなものは実在しないと
私たちは考えるようになった
それがなくては
この世界も わたくしも 
一刻も成り立ちはしないのに
わたしたちは それを架空のものと
考えるようになった しかしながら
一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば
その人は 観世音菩薩なのであり
一本の樹が ぼくに慰めを与えてくれるならば
その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである
山尾三省「観音経の森を歩く」より
 
 仏さまというと仏像やお寺の中のこと、あるいは亡くなった方だと思いがちですが、仏さまという存在は、私の内側にある慈愛の心そのもののことです。現代の社会では、仏さまを信じる心は薄くなっています。それは、人を慈しみ愛すること、さらには人を信じる心が失われているという意味となります。
 
 自己中心であり自我から離れることがない考え方は、死後も苦しみが続くと思いこみます。自分の死後、何もしてくれないのではないか、迷惑や負担になるのではないか、あるいは、こういう風に送ってほしい、などなど。親は子に対して、どうせ帰ってはこないとか、違う人生だから自由にと、もっともらしいことを口にします。過去を振り返ると、先祖をしっかり守る姿、仕事に明け暮れた姿、淡々と生き続けた姿、さまざまな親がいたはずです。親子には、生きている間には交わせない言葉があります。亡くなって初めてわかることもありますし、こみ上げる感情もでてきます。時間をかけて、お金もかけて相手のために動いたからこそ得られる満足もあります。
 
 供養とは生きている人が行う善い行いであり、死者が自分のためにすることはありません。自分の死後を思い、身辺の整理で安心を得ることはあっても、自分がいない未来の人々の生き方までもを、整理をする必要はありません。今を潔く生きぬき、あとは仏さま、つまり、慈愛や信頼の心に「おまかせ」する生き方に徹したいです。