亡き方のため

 十九歳の夏、私は初めて京都のお寺に行き、修行者のはしくれとなっていました。暑い日々をこなしていると、幼い頃から知っていた父の友人であるお坊さんから、「さぞ、暑かろう」と、励ましのお葉書を頂きました。 当時の私はまだまだ幼く、目上の方が云う理不尽なこと、納得のいかない有り様に対して、常に反抗していました。 同時に、初めて経験する京都の夏、汗まみれの毎日がつづき、何もかもが、クソまみれのように感じると返信した記憶があります。

 「クソ・クソって、口にだしよったら、知らんうちに、あんたもクソになっとたい」と、再びお便りを頂きました。

 

 生きとし 生けるものの

 心が 清らかであれば

 仏さまを 見ることが出来る

 もし 汚れていれば

 仏さまを 見ることができない

           弘法大師空海

 

 私が小さい頃、泊まりにいらっしゃった時のこと、私のノートを覗いて、カタカナの「ソ」と「ン」は、点の角度を変えると違いがよく出ると教えてくれました。そして、私の手相を見ながら「あなたは父ちゃんより立派になるばい」といわれて、不思議なことを言う人だと感じるとともに、子供心にとても嬉しく、掌をながめるたびに、そのことを思い出します。

 面影もないほど、やせて横になられている棺に、お花を手向けながら、蘇ってくるひとつひとつの記憶を、私はしっかりと確認していました。亡き方の記憶というのは、そのまま自分自身の思い出をたぐる時間でもあります。亡き方と自分の共有する時間をたぐりよせることが、自分の生き方を確認する時間となっています。亡き方が与えてくれる、あたたかい時間なのです。

 お葬儀にしても、これから迎えるお盆にしても、「亡き方のため」ととらえると、ひどく空しく寂しいものとなります。亡き方とは、ひどく抽象的なのに、「亡き方のため」という切り札により、かえって迷わされてしまうという現実もあります。

 亡き方がこの世に生きている場所は、私たちの心の中であり、積極的に「私のため」の行事を愉しみながら行うことができれば、それが最も尊い供養となるでしょう。「私のため」と強く思えば、必要の有無も見えてきます。そして「良かった」と、思う時が、仏さまを見ることが出来る瞬間なのです。